映画「Barbie」は今年一番面白く、ピノッキオのように人形が人になるプロセスを考察しました
Barbie見ました。面白かった。様々な切り口のあるBarbieですが、他サイトで色々取り上げられているので、この記事ではBarbieの設定である人形が人になる物語のプロセスを追ってみたいと思います。
おすすめ度
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️(5.0/5.0)
出だし
出だしはなかなか良かった。細かなピースに分かれて群れで波打つようなカラフルな図形が最終的に姿を見せるのがMATTEL社のロゴに変わるところです。単純に美しかった。それを一転してR.シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」が流れる荒野の色のない世界でおままごとする幼児のシーンに切り替わるのですから、キューブリックの「2001年宇宙の旅」のオマージュであることがわかります。モノリスならぬバービーを見た女子が、赤ん坊の人形を投げ上げ、それがバービーランドに切り替わっていきます。なかなかいい出だしでした。先が期待できると感じました。
この映画の見方
この映画はいろいろな見方ができ、様々な切り口で語れる興味の尽きない映画です。YouTubeや解説サイトでもいろいろな議論があるでしょう。例えば以下でしょうか。
- 完全なフェミニズムの世界と家父長社会(理想と現実)
- ジェンダーロールの生きづらさ
- 子供のおもちゃは性差があるか(女子はおままごとで、男子は戦闘もの)
- 異性が好むであろうと錯覚してる振る舞い(ケンの男らしさであるスタローンやゴットファーザーの解説など)
- 老女が知っている自分の美しさ
- 多様性尊重で弾き出されるブロンズガール
- ミソジニー(女性蔑視)に染まるケン
プロットは古典的
ストーリの枠組みを決めるのはバービーが人形ということです。それも世界的に有名なバービー人形を映画にするとしたら、人になる物語しか思いつきません。その意味でピノキオの物語だと思います。理想を生きていたバービー達が人の世界と干渉し、死を意識することでセルライトが現れてフラットな踵になるなど劣化します。それを食い止めるために人の世界をただしに行きます。現実世界に赴いたバービーが色々な嫌なことや思ってもいなかった指摘(50年フェミニズム遅れたとか)を受けて落ち込んでしまいます。同行したケンは男優先の社会に目覚め、バービーの付属品あつかいだったケンをバービーランドそのものを男社会に作り変えてしまい、そのリーダーになってしまいます。フェミニストの理想郷や男性優位社会やその中でも人の生きづらさ、社会を変革する戦略、バカな男など、さまざまな切り口で面白く肉付けされたストーリが展開していきます。
このバービーの大きな設定(プロット)は作り物のバービーランドの人形だから死がないバービーが、死ぬ運命の人になることです。マーゴット・ロビー扮するステレオタイプバービーはMatrixの映画のように疑問を持ちながら止まるか進むか選択を迫られます。大統領でも医者でも宇宙飛行士で何者でもないステレオタイプバービーはバービーランドでも価値を見出せず、人になることを選択します。ここでは人形が人に生まれ変わるプロセスをこの映画はどう描いたか見ていきたいと思います。
キリスト教的世界観の名前・言葉
前提として、映画の作り手とは見る側が基本的事項を共有していることが出発点になっていると思います。それはキリスト教的な物の見方で、それが自分の名前を探すこと、言語化することで洗脳から抜けることに表れていると思いました。バービーの生みの親ルース・ハンドラーはバービーに名前を与えます。また、モヤモヤした気持ちを言葉に表すことで、洗脳から抜けより強くなっていきます。この世は神の言葉によって作られたことを表すとされるヨハネによる福音書の「始めに言葉ありき」が有名ですが、言葉、名前が最初に必要だという感覚あるのではないかと思いました。キリスト教的モチーフを多用する鋼の錬金術師も名前を探すシーンが印象的でした。たくさん作られたバービーがいる中でステレオタイプバービーが人になるのも自分の名前を見つけることが必要でした。日本ではママ友から「〇〇ちゃんのお母さん」と呼ばれるとか、「〇〇課長」とか肩書きで呼ばれるとか、特に個人名でなくとも違和感がないし、御畏れ多い名前はむしろ隠した方がいいという文化ですから、そこまで拘らないのではないかという気がします。もっともバービーが一杯いるバービーランドでは肩書きのないバービーは生きるのが不便なのは間違い無いですが。
また、最初単純で深刻なことを考えないと自分でも言っていたステレオタイプバービーが、モヤモヤした気持ちを言葉を見つけて表現することで知恵をつけ、洗脳を解いていきます。心の中からこの言葉を見つけ出して声に出すことが力を与えるのも、言葉の力だと思いました。日本にも言霊の力はありますが、ニュアンスがちょっと違いますね。言霊は夢を語ると実現するみたいな意味で使われることが多いと思いますが、バービーでは自分の気持ちを表す言葉を見つけること自体がそのまま力になっています。このあたりにキリスト教的な言葉に対する世界観を見た気がしました。
最後のシーン
この物語は「死を意識する」ことから楽しい理想郷であるバービーランドを離れ、(いつか死んでしまう)人になるというストーリでした。この映画の最後のシーンは化粧しておめかしをしながらもスリッパで行く場所が「産婦人科」だったというオチです。スリッパを履いていたのだから妊婦でその検査に来たのだろうという意見もありますが、私は死と対になる性が機能するかの確認だったろうと思いました。死は個体に必ず訪れますが、生物は子孫を残すことで命を繋いでいきます。そのためには体は子供を作れることが必要で、それを確認するために行ったと解釈しました。それが故に、死んでもしまう人になっても子供を作れる希望があることを暗示していると思いました。もちろん、現代のコミュニケーションとしての性交が可能なのかの暗示もしていたのかもしれません。
監督は「10代の女の子が行くのを躊躇う婦人科にバービーも行くのよと、背中を押してあげたい」という趣旨のことを言っているので、そういうことも意図しているでしょう。でも、ちょっと33歳のマーゴット・ロビーからそれを読み取るのは難しいでしょうね(笑)。
参考
バービー実写映画考察!最後のセリフ婦人科の意味は?ルースハンドラーは実在!
以上です。