実写版『ルックバック』を観て、もう一度『ルックバック』しました

実写版『ルックバック』を観て、アニメではパラレルワールドだと思っていたif世界の見え方が変わった。過去は変えられない。でも過去の意味=認知が変われば、今の行動が変わり、未来も変わる。過去を見つめ直すことで、今を生きる力を得られることもある。そんな『LOOK BACK』として、もう一度この物語を受け取った。

実写版『ルックバック』を観て、もう一度『ルックバック』しました

実写版『ルックバック』を観て、もう一度『ルックバック』しました

ネタバレ注意

是枝裕和監督の実写版『ルックバック』を観てきました。

藤本タツキさんの漫画も、押山清高監督のアニメ版も知っています。それでも前半から泣きっぱなしでした。特に後半、オリジナルシーンを含めた心情表現が素晴らしい。

音楽で感情を煽るのではなく、無音を含めた「音」の表現がいい。そして何より、女子が少女になり、若い女性へと成長していく過程が、実写ならではの身体で見事に表現されていました。役者の生身の表情や仕草には、アニメとは違う説得力があります。

そして観終わってから考えているうちに、もう一つ大きなことが起きました。

アニメ版では「二つの世界線」として見ていた後半のif世界が、まったく違って見えたのです。

その見え方が変わったことで、『LOOK BACK』というタイトルの意味まで、私の中で変わりました。

今回はその話を書いてみます。

漫画の名場面を再現しなかった実写

卒業式のあと、藤野が京本の家から帰る場面。

京本から自分の漫画をずっと読んでいたことを知らされ、藤野が雨の中を帰っていく。

原作でもアニメ版でも、ここは強烈です。

藤本タツキ節全開、とでも言いたくなるような身体の動きと構図で、藤野の喜びが爆発する。現実の人間の動きを写実的に描くのではなく、漫画だからこそできる身体表現で内面を描いています。

実写版は、それをそのまま再現しませんでした。

最初は「あの名場面を変えたんだ」と思いました。

でも、こちらの方が実写として好きでした。

そこにいたのは「漫画の藤野のポーズを再現する俳優」ではなく、嬉しくて仕方がない12歳の女の子です。

雨の中を進む。身体が弾む。小唄が出る。喜びが全身から漏れ出す。

美しいシーンでした。ここでも感涙。

原作の構図を再現する代わりに、生身の少女の身体で同じ感情を表現していました。

顔だけではありません。姿勢、歩き方、視線、声、相手との距離、ちょっとした仕草。少女が成長して若い女性になっていく時間が、人間の身体そのものに現れます。腰のあたりの体型変化も違和感がなかった。

漫画を写真に置き換えるのではなく、漫画で描かれていたものを「身体」に翻訳する。

そこにまず、実写にした価値を感じました。

そしてもう一つが音です。

私は劇伴より、生活音や環境音、そして無音がとても印象に残りました。以前『怪物』を観たときにも感じた、是枝映画の「音」です。

受賞発表を見にコンビニへ急ぐ二人の足元で締まる新雪の音。蝉をバックに夕暮れに囀るヒヨドリ。砂利道で靴底が擦れる音と都会の喧騒との対比。ハクチョウの鳴き声から冬の訪れに気づく藤野。学校のざわつきや、温かみのある藤野家の生活音も良かった。

こうした音にまで耳を澄ませられるのは、映画館で観る楽しみの一つでしょう。

身体と音がアニメとは違う映画の言葉で、『ルックバック』を語り直しているように感じました。

気がつくと、京本の側から見ていた

アニメ版を観たときは自然と藤野の視点で物語を追っていましたが、実写版では「京本の側」から物語を見ている自分がいました。

京本は小学生のころから背景や風景を描き続けています。そして藤野の漫画の才能を誰よりも早く見抜く。

ここには面白い非対称性があることに気がつきます。

京本には、藤野の漫画のすごさがわかる。絵の技術だけではなく、藤野が作る「物語」の圧倒的な面白さを理解し、ファンになる。アマデウスのサリエリのように。

ところが藤野は、京本の圧倒的な画力には気づいても、京本が見ている美しさを同じようには理解していない。

藤野にとって背景はアシスタントにも任せられる仕事です。

しかし京本が惹かれているのは、その背景や風景そのもの。自然や風景、空間から物語性を立ち上がらせる美の感覚です。

実写版では、京本が背景美術の世界に惹かれ、美大へ向かっていく流れが、私にはアニメ版よりずっと強く見えました。

二人とも「描く人」です。だから同じ方向を見ているように思っていた。

でも、そうではなかった。

藤野は物語を見ていた。京本は風景を見ていた。

しかも京本には藤野の見ているものが見えていたのに、藤野には京本の見ているものが十分には見えていなかった。

その非対称性が、実は原作から仕込まれていたのですね。私は実写版を観て、初めてそれに気づきました。

そしてこの非対称性が、終盤で大きな意味を持ってきます。

ifの世界が、以前とは違って見えた

一番印象が変わったのが、後半のif世界でした。

アニメ版を観たときの私は、あの場面を二本の世界線として受け取っていました。

藤野と京本が出会った世界と、出会わなかった世界。四コマ漫画が、その二つの世界をつなぐ。

ところが実写版では、まったく違って見えました。

これは別の世界線ではなく、京本を失った藤野の中で、その瞬間に立ち上がってしまった「物語」なのではないかと。

「あのとき自分が京本を部屋から連れ出さなかったら」

「私が漫画を描いていなかったら」

「京本と出会っていなかったら」

取り返しのつかない出来事に直面したとき、人は何度も「もしも」を考えます。

しかも藤野は、物語を瞬間的に作ることのできるストーリーテラーです。

だから「もしも」を考えたというより、物語を作る脳が勝手に走り始めたように、私には見えました。

自意識より少し深いところで、自分の記憶を材料に過去が組み替えられ、物語として脳内再生されていく。藤野自身は、それを見ている。

その物語の中で、藤野は京本を空手で救います。京本に出会わず、漫画を諦めて空手を身につけた世界線。

ところが京本を救ったあとでさえ、藤野は「じゃあアシスタントにしてあげる」と言う。

この時はまだ藤野は藤野のままですね。

そこで京本が尋ねます。

「じゃあ藤野ちゃんはどうして描くの?」

この問いで、物語が止まる。

現実の藤野は、もう京本とは描けません。

京本を救う物語なら作れる。しかし、その物語を作った自分自身に「では、なぜ描くのか」と問われ、息もできずに立ち尽くし答えがでない。

ここが、私にはとても重要に思えました。

弔問で訪れた京本の部屋には、何枚もの風景画が干されています。

それを見る藤野。

今まで「背景」としてしか見えていなかったものが、京本が見ていた物語性のある美の世界として立ち上がる。

そこで初めて、藤野の物語と京本の風景が重なったように感じました。

藤野の物語 × 京本の風景

京本はずっと藤野の物語を見ていた。しかし藤野は、京本を失って残された絵を見つめることで、初めて京本が見ていた世界を見る。

そして、その京本の絵が動き始める。

ここでロトスコープが使われたことにも意味を感じました。ロトスコープは、生身の人間の動きを撮影し、それをもとに絵を描いていく技法です。それまで実写として生きていた藤野と京本の身体が、京本の愛した背景美術の世界へ入り、絵になってもう一度動き始める。

藤野が作る物語の中で、京本の風景が世界になった。

私にはあのロトスコープが、二人が果たせなかった「一緒に作った漫画をアニメにする」という夢であると同時に、藤野が初めて京本の見ていた美しさを受け取り、自分の物語と重ねた瞬間のように見えました。

藤野が作る物語が、京本が愛した美しい世界の中で動き始める。

京本を救うことはできないが、京本が何を見て、どう生きてきたかの意味を知る。

過去の認知の更新が起こりました。

そしてそれは、さらには自分にとって深く眠っていた「なぜ描くのか」の問いと向き合い、前に進むために、どうしても必要なことだったのではないでしょうか。

そこでタイトルが突然つながった

if世界で藤野がしたことは、自分の記憶を使って過去を再現し、もう一度意味を考え直すことでした。

そう考えたとき、『LOOK BACK』というタイトルが突然違って見えました。

藤野は過去を振り返っています。

しかし、過去そのものを書き換えたわけではありません。

ifの物語を通して過去をもう一度見直すと、別の京本が見えてきました。

京本は藤野に出会う前から絵を描いていた。自分で美しいものを見つける眼を持っていた。藤野の漫画を好きになり、外へ出て、自分の描きたいものを見つけ、美大へ進んだ。

京本の人生は、藤野が作ったものではない。

京本自身の人生だった。

そう過去を捉え直したとき、変わるのは過去ではありません。

現在の藤野です。

そして、京本の問い「なんで描いてるの?」はこれからの自分への問いになっている。

だから最後に藤野が机へ向かう姿が大きな意味を持つ。

『LOOK BACK』というタイトルなのに、最後に問われているのは今の覚悟と未来なのです。

私自身も『ルックバック』をルックバックしていた

そして、もう一つ妙なことに気づきました。

映画の中だけでなく、私自身にも似たことが起きていました。

アニメ版を観たとき、私はifを「二本の世界線」として見ていました。

ところが実写版を観て、もう一度あの場面を思い返すと、「あれは藤野が記憶から作った物語だったのではないか」と見え方が変わった。

京本についても同じです。

以前は藤野の相棒として見ていた人物が、最初から藤野とは違う美を見ていた一人の表現者として見えてきた。アニメ版は一フレームも変わっていません。

変わったのは、私の中にある『ルックバック』感です。

そして一度そう見えてしまえば、次にアニメ版を観るとき、もう以前と同じようには観られないでしょう。

過去は変わらない。でも過去の意味が変われば、現在が変わる。現在が変われば、その先の未来も変わる。

『LOOK BACK』とは、過去についての物語ではなく、過去を見直すことで現在が変わり、その結果として未来が変わる物語だったのでしょう。

一つだけ、答え合わせを

一つだけ気になって調べたことがあります。

藤本タツキさんが『ルックバック』に仕込んだとされるOasisの曲名です。

Don’t Look Back in Anger.

この in anger とは何なのだろう。

作詞したノエル・ギャラガーはこの曲について、過去に自分がしたことにいつまでも囚われるのではなく、後ろではなく前を見ることについての歌だと語っています。

藤野にとっての「anger(怒り)」とは、間違いなく「あの時、彼女を外へ連れ出してしまった自分自身への強烈な怒りと自責」でした。

大切なのは、

Don’t look back.

ではありません。

Don’t look back in anger.

藤野はむしろ、徹底的に過去を振り返ります。

京本との時間を思い出し、自分の選択を問い直し、もしもの物語まで作る。

でも過去から目をそらしてはいません。

それでも、その過程を通して、自責だけで過去の意味を見ている。

だから前を向くことができる。

LOOK BACKとLOOK FORWARDは、同じ意味のコインの裏表なのかもしれません。

過去の意味(認知)が変わることで、今を生きる力(未来)を得られることもある。

実写版を観たことで、奇しくも私自身の中にあったアニメ版『ルックバック』感も変わりました。

私は今回の『ルックバック』から、結構普遍的なテーマとしてのメッセージを受け取りました。

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